映画「レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ」を再見したので、その感想を絡めて書かせてもらう。
ハード・ロックについて言及されるとき、音を激しくガンガンならすだけのうるさい音楽、といった誤った解釈でとられることがあるが、ハード・ロックというものは、本当はもっとスピリチュアルなもので、己の魂を音楽の中に昇華する行為に他ならない。ハード・ロックのハードの意味は、音自体の硬さをさしているのではなく、魂の重たさを意味している。その証拠に、ツェッペリンの音は決して頭にガンガンうるさく響くようなものではないし、その音は、むしろ受け手の魂を揺さぶるものである。だからツェッペリンは、ライブで派手に踊ったり、ステージの端から端まで走ったり、バカな真似はしなかった。むしろペイジの動きなどよたよたしているくらいだ。ツェッペリンにとっては見せることがパフォーマンスなのではなく、純粋に演奏を聴かせることが彼ら流のパフォーマンスだったからである。インタビューや記者会見での威張り腐った態度や、ホテルにグルーピーを連れてきてのハレンチ騒ぎ、その他器物破損など、傍若無人ぶりは並大抵でなかったが、映画「狂熱のライブ」を見ていると、彼らはやはり、肉体ではなく、精神性のバンドだとわかる。受け手を踊って楽しませるバンドなのではなく、受け手の魂を開放させる手助けをするバンドとでもいおうか。だから受け手の方も真剣にじっと黙って聴き入ってしまう。世界一の天才ドラマーといわれたボンゾも、終始ただ黙々と精一杯ドラムを叩くことだけに専念している。手ぶらのプラントでさえ、無心のまま手首を動かしているだけで、演出らしい振り付けはなしだ。ハード・ロックといえば、もっと激しく動きを見せるものだと勘違いしている人が多いが、このステージ・パフォーマンスのおとなしさは、日本のしょうもない歌謡曲を見慣れた人にとっては想像もつかないだろう。しかし、地味ながら、その重厚な演奏が、見るものを圧倒してやまない。「Since
I've Been Loving You」「Dazed and Confused」「Moby Dick」などは、ハード・ロックの神髄。いつまでもひたすらに楽器をならし続けていたい。それが真のハード・ロックの世界なのだ。このことはジャック・ブルースやジミ・ヘンドリックスにもいえることだが、とにかくハード・ロックは、もっともクールで内省的な音楽ジャンルだといえるだろう。